母の手紙
旅にでると、何故か、自然と港町に足が向いてしまいます。
ポンポンポンと音をたてて港を出て行く漁船、喧噪の絶えない魚市場、そして何より旬の魚をツマミに飲む酒。
一人、杯を重ねていると、人間の怒りや悲しみを深海に沈め、やがて、再び清浄な雨となって天空から降り注ぐ。そんな母なる海の営みに想いは巡ります。
これは、そんな小さな港町の酒場で出会った青年のお話です。
2003年8月
高専を卒業した僕は、地元では有名なKというソフトウェア開発会社に就職するつもりだった。しかし、ある男の「起業家」という言葉を聞いたとき、普通のサラリーマンになる気がなくなった。
しばらくの間、ぶらぶらしていた僕に、母さんは、家業の居酒屋を手伝いなさいって言ったけれど、僕はどうしてもホリエモンのようになりたくて、あの夏、家を飛び出して都会に向かった。
2008年8月
次は、代官山・・・
いつもの満員電車の中で五郎は、中吊り広告を見ながら・・・。
オリンピックって、そんなに大事な物なんかね・・・。クッソ、靴のヒモ、踏まれた。ホント、俺ってついてねえ。でも、意外といい女。ラッキーかも。ねえ、彼女・・・。
東京に出てきて5年、あの頃は、世の中の全てのものがネット上に置き換わる。そうなれば僕たちはみんな幸せになれる。そして、それが出来るのは僕しかいないと信じていた。
実際、この10年の技術の進歩は目覚ましく、そんな世界も近づいている。でも、僕はIT企業の社長の名刺を持ってはいても、従業員なんて1人もいやしない。いつも羽振りの良い会社から、楽をして1円でも多くのお金を毟り取ろうとするから、なかなか仕事も来ない。金が無くなると、その社長様が派遣社員となって何とか食いつないでいる始末だ。ところが、最近、僕の心の中で隙間風が吹きはじめている。僕の中で何かが変わろうとしている。
第1話 社長のミッション
母さんは、うちの居酒屋で働けば「人が人として生きていくために必要なすべてのことを学べる」って口癖のように言っていたけど、あのみすぼらしい居酒屋に何があったんだろう。最近、その言葉が気になってしかたがない。
机と椅子を5つも置けばいっぱいの事務所に出勤しても、やはり仕事はない。そこで、5年間、毎月のように送られてきたけれど、封も切らずに放っておいた母からの手紙を読むことにした。できることなら、会って話をしたいけれど、母さんは、もういない。
五郎、元気にしていますか。
おなかを空かせていませんか。
会社はうまく行っていますか。
つらくなったら、いつでも帰ってきなさい。
あなたは、ITとやらが好きで、毎日、コンピュータに向かっているけれど、若いうちは、人の話をたくさん聞いた方がいいですよ。
5年前の僕だったら、ここまで読んで、破り捨てていただろう。でも、今の僕には母さんの言葉が心に染みる。
・・・子供のころ「どんなに辛いことがあってもお釈迦様がいつも見守ってくれているから安心しなさい」って話したのを覚えていますか。あなたは本気にしなかったけれど、本当なんですよ。あなたの心が澄んでいれば、きっとそれに気づくはずなのですが。
五郎は、あたりを見回しますが、何の気配も感じない。
・・・ITとかの会社の社長になって、どんな気分ですか。社員の皆さんを幸せにしていますか?お客様を幸せにしていますか。
社員は皆、辞めちまったし、かかってくる電話は苦情ばかりだ。
・・・難しいことはわかりませんが、社長の仕事については、あなたより少しだけわかっているつもりです。最初に、会社は何のために存在しているかを考えてみてください。
会社は、お金を稼いで・・・、う~ん。その答えが、最近、よくわからなくなってきている。
ホリエモンに憧れるあなたのことだから、きっと、「会社なんてお金持ちになるための道具にすぎない」っていうところかしらね。
痛いところを突かれた。半年前までの僕だったら、何の迷いもなく、その通りに答えていただろう。
でも、よく考えてごらんなさい。あなたは自分1人で生まれてきたような顔をして町を出て行ったけれど、そうじゃないってことは、もうわかったわよね。それは、あなたの会社も同じ。社会の中で生かしてもらっている存在なんだっていうことを忘れないでください。どんなに大きな会社でも、どんなに小さな会社でも、会社は全て社会のお役に立つために存在しているんですよ。それを忘れた会社は、いっとき華やかに見えても、決して長続きしないものです。
目から鱗が落ちる思いだった。上京して、天才エンジニアと持てはやされた五郎だったが、楽をしてお金を稼ぐことを覚えたときから、お客も社員もソッポを向き始めた。
つまり、会社が社会の中に存在する目的は、社員やお客様、その他会社に係わる全ての人を幸せにすることです。それを実現するために社長がすべきことは、会社が進むべき道を明確にして、社長自ら松明を灯し、先頭に立って社員を導くことです。
母さん、古ぼけた居酒屋だなんて・・・って、バカにして悪かった。母さんは、本当にすごい経営者だよ。
母の割烹着姿を思い浮かべると、とめどなく涙が流れてきた。
コラム 菩薩的リーダーシップ
仏教用語で、悟りを開いた如来様がいる涅槃の境地を彼岸、そして四苦八苦を経験する現世を此岸といいます。大乗仏教では、修行中の菩薩は衆生を励まし導きながら共に彼岸へと渡ります。
社員の手をとり、社員と一緒に彼岸に渡る(良い会社を創る)のが社長の菩薩的リーダーシップです。
また。子供の手をとり、子供と一緒に彼岸に渡る(良い子に育てる)のが親の菩薩的リーダーシップです。
その時、完成から出発することを心がけましょう。
「私はまだ、人を導けるような立派な人間じゃないから、立派な人間になってから・・・。」と躊躇していては、リーダーシップを発揮する前に会社は潰れてしまいますし、子供は育ってしまします。
時は待ってくれません。今のままの私たちでも、悟ったつもりになってリーダーシップを発揮していけば、菩薩が如来になるように、知らず知らずのうちに、私たちも立派な経営者や親になっているはずです。